水戸地方裁判所 昭和41年(わ)189号 判決
以下は、判例タイムズに掲載された記事をそのまま収録しています。オリジナルの判決文ではありません。
〔判決理由〕一、被害者堀口弘の死因について
検察官は、本件において被害者堀口の死因が外傷性脳浮腫を原因とする脳圧迫症であるとし、然らずとするも、右前、中(及び後)大脳動脈血栓症に基づく急性脳腫脹である旨主張するので、この点について検討する。
前掲小林鑑定人の鑑定書によれば、被害者堀口の開頭検査の結果『「頭皮内、骨膜下に出血なく、両側頭筋に出血なし」「頭蓋腔内血液は認めない」「硬脳膜にも出血などの異常全くなし」「軟膜、蜘蛛膜下に出血はない」とし、右大脳は強く水腫性にト腫脹して大脳底部の小脳天幕に接する部が軟化状となつていて、大脳を左右に分け、切離割を入れてみると、右大脳底部は深層まで水腫性になり、右側脳室は狭く、ひどく左側まで張出して左側脳室を圧迫、左に変位せしめている。更に小脳を摘出取出すと壊疽状の部分は大脳より間脳に亘り、肉眼的には六糎×一一糎×六糎の範囲に及び同所の核などの中枢部も軟化している。要するに水腫性に腫脹した大脳、間脳は硬い小脳天幕のために強く絞められて軟化症状を起こしたもである。左側大脳は左側に強く圧せられているだけで組織的に異状はない。小脳は小脳天幕に接する軟脳幕が若干水腫状の状態になつているが、小脳自身著変はない』というのであるが、これにより大脳に著明な変化があつたことが明らかである。そして上野鑑定人の鑑定書によれば「被害者堀口の脳にみられる脳底部主として右海馬回鈎部を中心とする天幕ヘルニヤ形成(小林鑑定人のいうヘルニエーション)は極めて著しいものであり、その部は小脳天幕縁による絞扼による二次的血管圧迫による軟化壊死も加わり、極めて特有な形態を示すとともに、脳全体が高度の腫脹を呈し、また小脳扁桃の突出も併存しているところからして脳全体の高度の圧昂進が存していたとみられ、しかもその程度が極めて高度であるので、これが死因となつたことは疑いがない」旨記載されており、これにより本件において高度の脳腫脹(急性脳腫脹)が被害者堀口の死因となつたことが認められる。そこでかかる高度の脳腫脹(急性脳腫脹)を生ぜしめた原因いかんということであるが、右上野鑑定書に基づき以下その原因について考察する。
1「閉鎖性の脳外傷による脳腫脹の可能性であるが、外傷で硬脳膜下出血や硬脳膜外出血で頭蓋内圧の昂進、脳腫脹が発生し、時により本件の如き偏側性の海馬回ヘルニアを形成して来ることがあり、とくに硬脳膜下出血の場合には外力直後に何等の症状もなく、半日ないし数日後から症状を発することもあるが、本件においては硬脳膜内外に出血がなく、また被害者堀口の右下眼瞼の皮下出血の損傷をつくつた外力はその力においてそれ程強大であつたとは思われないが、仮りにこれが強大なものであつて脳に挫傷巣等の損傷をつくり、これが原因となつて脳腫脹が発生せしめられたとすれば、その場合右の海馬回部のみに高度のハーニエイションをみることもないこともないし、殊に右の海馬回付近に高度の挫傷巣をつくつた場合において然りであるが、その際には当該外力直後に意識消失があり、挫傷巣の存在とともに蜘蛛膜下出血を伴なうのが常である。しかし本件ではこのような挫傷巣が存在していたとのことは小林鑑定人の鑑定書にも記載がなく、また「脊髄液は無色透明である」とのことからみて、このような損傷の存在は否定的である。しかるところ小林鑑定人の鑑定書によれば「外力が効果的に大小脳境界部に作用し、脳幹部を小脳天幕により軽度に捻挫し、ために同所が腫脹し、血液の循環障碍を来たし、右側大脳は腫脹増大し」たものであるとし、外力によつて脳幹部が捻挫されたものとみているようであるが、右鑑定書添付の写真十三にみる右海馬回部はにぶく腫れあがつた変化をみるのみで、明確な挫傷巣らしい変化の存在を認め難く写真上でところどころ黒いような色をしている部分は出血かも知れぬが、腫脹による二次性循環障碍による血液滲出である可能性の方が大きい。しかし、いま仮りにそのような機転で外力が有効に作用して、これらの部に挫傷巣をつくつたものとすれば、外力直後に意識消失を伴なう高度の脳振盪症状を示さぬ筈はなく、本件の場合の如く、受傷後五日も無症状ということはあり得ないことである。それよりもまず前記右下眼瞼の皮下出血のように眼の下や頬部への外力では前頭極や眼窩回または側頭極等に挫傷巣をつくり易いが、これらの部に何等の変化もなくて、脳底の海馬回部だけに挫傷巣をつくるということは首肯しえられないし、結局外力直接による死因たる脳腫脹の形成にはあまりにも問題が多く、不可能であると考える」旨の記載から考え、被害者堀口の死因になつたと思われる高度の脳腫脹(急性脳腫脹)を生ぜしめた原因が果して脳外傷によるものかどうかは極めて疑問であるというべく、かように外傷性を原因とする脳腫脹と認め難いとする以上、本件において被害者堀口の死因は検察官が主張するような外傷性脳浮腫を原因とする脳圧迫症と認めることはできない。
2 次に前記高度の脳腫脹の原因として考えられるものは、右大脳半球の実質内例えばその基底核や内包等の部位に出血し、これが脳室や蜘蛛膜下腔に破れ出ない場合これは脳卒中の一型として屡々みられるものであるが、本件ではこのような脳溢血(脳出血)はもとより、被害者堀口の脳軟化部の組織学的検査をした結果ほとんど軟化巣で腫瘍性の細胞は認められないが、グリア細胞の瀰慢性の増加が著明であつたということから脳腫瘍も存在しなかつたこと、従つてこれらが、その原因となつていたと認められないこともまた右上野鑑定書の記載に徴して明らかである。
3次に右原因として考えられるものは、脳動脈血栓症であるとしているが、特にこの点につき右上野鑑定書の「脳動脈血栓症は、さまざまな機転で発生する。例えば左心の弁膜症、心臓衰弱、血液の凝固性の昂進、血液循環速度の遅延等の原因のために弁膜又は左心耳に生じた血栓が剥離して脳動脈を栓塞するとか、硬化、アテローム変性、動脈瘤形成または動脈幹の血栓性変化に続発し、血栓をつくるとか、あるいは更にそれに引き続き、その下流の脳血管に栓塞を発生させる等であり、要するにこの血栓は脳の血管内壁に初めから発生するものもあるし、また頭蓋以外の部分から血流によつて運ばれて来た種々の成分の栓子が血管内にひつかかつつてこれを塞ぎ、栓塞を形成するものもある。この種の栓子で多いのは血液成分からなる血栓である。この血栓は総頸動脈が内頸動脈と外頸動脈に分岐する部に出来ることが多く、その際、必ずしも動脈硬化性変化が存在する必要はなく、頸動脈分岐部の血管内膜の軽度のアテローム変性の部を基礎に血栓が発生しているのをみることも屡々であり、この変化が内頸動脈を伝つて上に進行し、更に頭蓋内に入つて前大脳動脈や中大脳動脈に血栓性血管炎をつくることがあり、そして本件においては小林鑑定人によつて右のような血栓症の存在を否定できる程に周到な検査がなされていないため、血栓症が存在しなかつたと断定しえない」「この血栓症があれば、その血管の灌流域に一時的に、または部分的に血行障碍が起こり、その部の神経細胞は傷害を受け死滅するが、グリア細胞のみは同程度の血行障碍でもこれに堪えて生き延び、しかもその後はかえつて増殖し、死んだ神経細胞の部分を埋めるようになることがある。それまで全く異常のないところに、その原因が何であれ、突然に血行循環が起こりその部分が突然壊死に陥り、これにより、それを中心にその周囲に腫脹がおこつて本件同様の経過を辿つたとしても、これを組織学的に検査すれば、グリア細胞は残つているとは言い得ても、著明に増殖ということにはなり得ない筈である」「被害者堀口の脳の組織学的検査によつて毛細血管の増殖もみられず、脳回は全体として萎縮を起こして来ていないし、グリア細胞の瀰慢性の増加が著明であるとの点を考慮すると、脳血管の変化による脳血栓症は一、二年という長期にわたつたものではない。この血栓症の本態は内頸動脈あるいはそれに続く大脳動脈例えば屡々みられる前又は中大脳動脈の血栓形成を原発症と考えるべきである」旨の記載と証人上野正吉の尋問調書中、同人の「鑑定人小林二郎作成の鑑定書中、組織学的検査の結果、脳幹部(脳の基底核)にグリア細胞の瀰慢性の増殖が著明であるとのことは、要するに右脳幹部に相当長い期間血液の循環性の障碍すなわち脳軟化症の前段階みたいなものがあつて、軟化しているために神経細胞が痛めつけられ、反動的にグリア細胞の数が増えてゆくということが考えられる」「脳血管の変化による脳血栓症は概ね二、三カ月ないし六カ月以前から存在していたものとみるべきである」旨の供述記載等を合わせ考えると、被害者堀口が本件犯行当時既に右前、中(及び後)大脳動脈血栓症に罹患していたものと認めることができる。
二、被告人の前判示暴行と被害者堀口の死との因果関係について被告人が被害者堀口に対し、その右眼瞼部を手拳で殴打したことは前判示認定のとおりであり、そして小林鑑定人の鑑定書によれば「被害者堀口の右下眼瞼はうす青くなっている。五糎×一糎、眼瞼に添つている皮下出血である」旨の記載があるので被害者堀口の右下眼瞼皮下出血の傷害が被告人の前判示暴行に基因するものと認められる。そこでかような被告人の前判示暴行が、当時既に前、中(及び後)大脳動脈血栓症に罹患していた被害者堀口に対し加えられた場合これにいかなる影響を与えたとみるべきかについて更に審究する。
上野鑑定人の鑑定書中「本件では外力の直接的作用による脳腫脹(閉鎖性の脳外傷による脳腫脹)の発生はあり得ないものと考えたのであつたが、たとえそうとしてもその間接的な作用による発生までも否定できるものではない。本件の外力は全く健康な人には何等の影響も及ぼし得ない程度のものであつたとしても、本件被害者では「軟化巣部のグリア細胞の増殖」(小林鑑定書)のあつた事実から知られるように、脳血管の変化による脳血栓症はかなり以前から存在しており、ただそれが脳血管の完全閉塞を来たさなかつたがために、あまり外に症状を露呈せず、このために本人も家族も気づかずに過ごして来たものであつたとすれば、これに軽微な外力にせよ、頭蓋内に多少とも波及し得る外力が作用すると、それによつて血管閉塞が急に進展するという可能性も存し、かかる可能性の一つは上流の一部、例えば内、外頸動脈の分岐部に発生していた血栓部から外力によつて一部の栓子が遊離し、血流につれて末梢に運ばれ、これが前大脳動脈、中大脳動脈又はそれらの末梢枝に止留し、これを栓塞し、その末梢に循環障碍を来たすということであり、別の可能性(この可能性の方がより大とみられるが)は前又は中大脳動脈の本幹又はそれに近い部位に本件発生以前から血栓が発生しており、これがグリア細胞の増殖を来たす原因となつていたのであつたが、このような場所は他の健常な血管壁の部位と異なり外力に対し、脆弱性を示すものであり、例えば血栓部の繊維化し又は硝子様化した部分に亀裂が生ずるということもままあるのである。又、当該外力が直接頭蓋内に影響力を伝達、血管壁の脆弱部に機械的損傷をつくらなかつたとしても、外力によつて一時的の頭蓋内圧の変化、髄液の移動、脳浮腫の発生等は血栓存在個所の環境を変え、他方顔面や下腿に対する外傷に発生した出血液の吸収による血液凝固性の昂進等と相俟つて元来あつた血栓の部分の病態を悪化させ、更にこれに新たに血栓の増殖を見ることもあり得るのであり、本件において上記のいずれかの機転によつて外力が被害者堀口の発症に関係していたとしても、その外力直後、すなわち一二月二八日の受傷直後から急に症状を発するということも必ずしも必要ではなく、その当座は意識消失もなく、手足の麻痺もなく経過し、止着した栓子または、元の血栓を基盤に発生増殖した血栓が更に大きさを増し、これとともにその血管灌流域に循環障碍を来たし、これが血栓の血管を外側から圧迫する等で悪循環的に閉塞が高度化するとき始めて症状を発するということもあり得る」「本件では軟化巣の組織学的検査でグリア細胞の増殖が認められているところから、血栓症的病症が本件以前から存在していたものと認められ、本件外力(一二月二八日)のあつた数日後から頭痛、悪心等の症状を発して来たことからすれば、外力の関与を考えせしめるに近いものがある」旨の記載と被害者堀口が前掲証拠によつて明らかなように本件犯行日(一二月二八日)より五日位過ぎた昭和四一年一月三日午前二時ごろ胸のむかつきを訴え、同日午後一〇時ごろには頭痛を訴え、吐気を催し、同月四日午前三時ごろ徐々に意識障碍があらわれ、同日午後一時過ごろ意識消失し、いびきをかくとともに、呼吸が乱れ、各関節の反射作用が陰性となり、同日午後六時過ごろから瞳孔反射は両側とも弱く、軽度の頸部強直がみられ、次第に昏睡状態に陥り、両日午後七時三〇分ごろ下顎呼吸となり、脳圧迫の症状を呈し、同日午後八時四〇分ごろ遂に死亡するに至つた事実等を合わせ考えてみると、被告人が本件犯行当時前、中(及び後)大脳動脈血栓症に罹患していたと認められる被害者堀口の右眼瞼部に前判示暴行を加えたことにより、同人の右血栓症の症状を悪化させて遂に急性脳腫脹により死亡するに至らしめたものと認めえられるので、前判示暴行と被害者堀口の死との間には因果関係があるというべきである。(高野平八 長久保武 竹田穣)